銀河の数は数千億と言われているらしい。
人類が地球外の生命体と遭遇することはないとしても、
僕らが見ている星を、彼らが見ているということは
普通にあるはずだ。
オリオン座とか、北斗七星とか、カシオペヤ座とか、
当たり前なんだけど、
そいういう形で見えるのは、太陽系周辺から見た場合にのみいえること。
前も言ったけど、北極星は
今現在の地球から北に位置する星、という相対的な意味のもので、
時代が変われば実体は変わる。
僕らの人生がどうなるか分からないのは、
たぶん、宇宙がこうしている今も広がっているからなんだと考えている。
一つ外の概念が内側のすべてを覆すってことはよく聞く話で、
これを「オセロ的演繹」と、演繹の意味も理解せずにいうことにしてるんだけど、
宇宙が定かでない限り、僕らもまた定かにはならないんだと。
高校時代、数学の授業で、無限分の一はつまりゼロであると教師が言ったことを強く覚えている。
無限分の一=0?
じゃあ、僕らがここに存在するということは宇宙が無限でないということの証なのか?
ところで、存在するってどういうことだ?
仮に人類が他の星のナニモノにも知られることなく、
微塵の影響も与えなかったとして、存在したといえるのか?
その答えは今でも見つかっていない。
宇宙が定かでない以上、世の中に絶対なんてものはないように思うんだけど、
時には僕らは盲目に突き進む何かに感動する。
悟りとは何か。
悟りを知らない以上その感覚を説明できないし、それを聞いた人もそれを知らなければ理解できない。
外国の料理を紹介する番組で、
食したリポーターがどんな言葉を使っても、僕らがそれを理解できないのと同じなんだと思う。
でもこうじゃないかと推測しています。
悟りとは、宇宙の流れに乗ること。
自分自身が宇宙となり、宇宙の代弁者となること。
ほんとかどうかは、自分が悟りを開いてみるしかわからない。
のかな?
0 件のコメント:
コメントを投稿