2008年5月25日日曜日

お前が無駄に過ごした今日は昨日死んだ誰かが生きたかった明日なんだ

この格言(?)はみんな知ってるかな?
妙な暑くるしさを感じるけど、それは「お前~」とか「~なんだ」が原因だと思う。

ところで、このセリフが言いたいのはどういうことか。これは少し深い。

Aさんが無駄に過ごした今日=昨日死んだBさんが生きたかった明日

ということだよね。同じ一日であると。
つまり、Bさんは生きたいと願って仮に明日を生きても、Aさんが無駄に過ごした程度の一日でしかない、つまり、Bさんはないものねだりをしないで与えられた今日を存分に謳歌しなさい。と。
そういうことだよね。

え?

それともう一つの解釈が。
AさんもBさんも違う人なんだから、彼らの一日の価値を比べてしまっているCさんの意見はそもそもおかしい。


なるほどな~。


俺が国語の先生なら、どれにも丸をつけたいところです。

2008年5月24日土曜日

なんとなく デザインポリシー

仕事の話。
個人的にシステムデザイン時に心がけていることがらはこんな感じ。

1.業務アプリはシンプルになるはずである

「人は複雑な業務をできない
 だから、システムで複雑に表現されるような業務を人はやっていない」

という前提でシステムをデザインする。システムのロジックが複雑になりかかった時、まず自分のシステムデザインを疑って掛かる。思い返す限り、この疑いは正しい。
なので複雑な仕様書は書かないように努める。直感で理解できない仕様書は、情報を整理・分析し切れていない証拠ともいえる。


2.論理モデルを叩く

論理データモデルを叩いて、破綻のない仕組みを考える。とはいっても、要求は尽きないのでそういったところでいつか必ず破綻し始めるんだろうけど、その日ができるだけ遠くになるように多くを想定し叩ききっておく。


3.フラグやコードは使わない

フラグやコード値は、システム化限界の境界線に至った時にのみ登場させる。そこは已む無くハードコーディングとなる。


4.プライマリキーにUID以外の意味を持たせない

テーブルのプライマリキーに意味のあるキーは持たせないようにしている。切り口はいくらでもあり、その一つをプライマリキーにした瞬間、システムが傾き始める。


5.法則を見抜きエンジンを作る

作曲も同じ。
好きな曲には必ず法則がある。パッとは分からないかもしれない。けど、少なくとも曲の好き嫌いがあるのなら、それらを識別する何らかの法則があるはずである。考えていくとなんとなく好きな曲の仕組みが見えてくる。それを、自分のエッセンスを加えつつ抽象化したものがこのマイソウルを生み出すエンジンとなる。そのエンジンに自分の"俺のこの思い"というパラメータを与える。するとポコッと曲が生まれる。
むろん音楽に限らない。料理とか水墨画とかも同じだし、アウトプットが物体ではない、スポーツや、この"人生"でも同じ。

ユーザはルールをシステム化要求としてあげていると思うんだけど、似て非なる要求は、実は非なるようで同じ要求、ということが多い。1.の「人は複雑な業務をできない」と言ったように、人はそこまで賢くないので多くのルールがあるとそれを守ることができない。
少なくとも俺は守れていない。勤務表を出さないのでいつも怒られる。それに交通費の清算もしないので、新幹線代とか、出張手当とか、タクシー代とか大いに損してる。忘れている間はいいんだけど、思い返すと、「ああ、あの金でうまいもんが食えたよな~」とか考え出してしまい。もとい。
ゆえ、分析すると、ごく一部を除き、まったく同じ仕組みの上に実現することができることが大半だ。
その仕組みがエンジンで、"ごく一部"は、振る舞いを決定するパラメータである。


6.仕様書からシステムはジェネレートできるはずである

仕様書は定義の集まりだが、大きく二つの意味があると考える。一つは、エンジンの定義。それからもう一つが、パラメータの定義。
エンジンとパラメータを掛け合わせて、コードをジェネレート(自動生成)するか、
エンジンを手で作って、パラメータをジェネレートするか。
どっちにしても仕様書からある程度はジェネレートできるはずである。
ジェネレートできない仕様書は、情報の質としては"あと一歩"である。

それから、開発を完全にアウトソースするなら、仕様書は"あと一歩"ではよくないはずである。よく、オフショア開発がうまくゆかないという話を聞くけれど、うまくゆく例があればその仕様書の精度がどれくらいなのか見てみたい。仮にその仕様書が"あと一歩"ではない、つまり、システム化の情報がそこにすべて盛り込まれているレベルのものだとしたら、オフショアするまでもなくシステムをジェネレートできてしまう。もしジェネレートできないとしたら、ベトナム人にもタイ人にもインド人にも期待したジェネレートはしてもらえない。仕様の曖昧さは、文化、という感じ方の違いにより、ブレを生む。文化は家庭ごと、個人ごとにも異なる。
日本人の間でも「よきにはからって」はなかなか通じないのだから。


7.ゴールまでの工程は極限までそぎ落とす

そんな感じで、ジェネレートなどを駆使して、要求がそのままシステムになるように努める。
ゴールまでの工程が多いほど要求はゆがみ、品質が落ちる。こここそが情報処理業で働く僕らの知恵の見せ所だと理解している。

ほんと、ここが知恵の見せ所。


8.業務はシンプルになるはずである

業務で受け渡しされている情報を分析すると、大半、業務がもっとシンプルになることに気づく。
それを見越してシンプルになるはずである、もっとコストは掛けずに済むはずである、という大前提から業務を分析、改善していくのがコンサルタントなんだと思う。1.で言ったことと表裏一体というか。


9.システムはユーザの時間を創り出す道具である

システムはツールの一つである。
ツールとは、道具である。
トースターや洗濯機や冷蔵庫、コンロ、パソコン、、、などなど全部道具である。
道具は便利で僕らの時間を創造してくれる。

その昔、人はガスコンロにも驚き、感動したはずだ。
「スイッチ一つで火がつくのか!火力の強弱も自在なのか!!!」
と。今となっちゃ当たり前の事象として、僕らの生活の一部を担ってくれている。

できれば、そういうものでありたい。
僅かな驚きと感動と、存在を忘れさせるほどのさりげなさと。
そういうのを、社会に生きる一員として提供できたらって思う。


ざっと。

2008年5月17日土曜日

なんか感動

「反日」消えた?ネットに「謝謝」の嵐 救援隊派遣で歴史動く

こういうのはみんな好きだと思う。

その一歩を自分が譲ることで、何かが変わるのかもしれない。

世界の最先端を突っ走る

人の知らないことをする。

たとえば、国境をなくしてみる。
たとえば、全人類の脳を直結させてみる。
たとえば、過去から今を、今から未来を算出する仕組みを作ってみる。
たとえば、誰も知らない曲がり角を曲がってみる。

人の知らないことをする。
その一瞬一瞬に世界の最先端がある。

えっと、つまり、世界一になるのは簡単だ、ということです。

2008年5月15日木曜日

人の知らない山がいい

登るなら人の知らない山がいい。
食べるなら人の知らない店でがいい。
作るなら人の知らないものがいい。

たぶん、なんでもそう。
知っていることは知りたくない。
知らないことは知らずにはいられない。

最近、気になるのは、ベルリンの壁崩壊が誰によって行われたか、ってこと。
古い。
実に古い。
俺の中のベルリンの壁崩壊は、

気運的に盛り上がった東西ドイツ市民により、次から次へと壁が破壊され、
俺も俺もと意気投合するものが現れ、ついには東西統一、元のドイツ、という国に戻った、
めでたしめでたし

というイメージ。

うわー、なんか違うな。

ウィキペディアで調べてみます。

2008年5月4日日曜日

大山三峰山のツキノワグマ

こんくらいの夕刻はTシャツでめっちゃすごしやすい。
登山の帰り、というのもあったか、もう鷺沼で両腕広げたら飛び立ってしまえそうに爽快だった。


今日は大山三峰山という、メジャーでもない山に登った。デジカメは電池を抜いて持っていってしまった。だから写真は撮れてない。

コースは簡単にこんなだ。








自宅~本厚木徒歩&電車7:30~8:4575分
バス待ち--8:45~9:4055分
本厚木~煤ヶ谷バス9:40~10:3050分
煤ヶ谷~三峰山山頂登山登り10:30~13:30180分(休憩入れて)
三峰山山頂~不動尻~広沢寺温泉登山下り13:30~15:30120分(休憩入れて)
広沢寺温泉温泉15:30~16:3060分
広沢寺温泉~広沢寺温泉入り口歩き16:30~17:0030分
広沢寺温泉入り口~本厚木バス17:00~17:4040分
本厚木~自宅電車とか17:40~19:0080分


煤ヶ谷からある程度登った分岐点にこんなものが登場する。
「三峰山は地形が急峻で歩道は狭く沢沿いやクサリ場など多く経験者向きの登山道です。無理をしないで引き返す勇気が必要です。」
それから途中、
「ツキノワグマが目撃されているので十分注意してください。」
とわりと新しい看板が目に付く。熊よけの鈴を持っていない以上、落石注意レベルで注意の仕方が分からない。

三峰山には、三峰というだけに3つの山頂があった。煤ヶ谷から向かって最初の峰は一人が座れる程度しかない。次の峰は二人が食事していたが、それで定員一杯。最後の峰には机が置いてあるが、それでも10人程度しか居られないほどの広さだ。多分、それを北峰、山頂、南峰と言っているんだろう。

違うかな。

仕入れた情報どおり確かに痩せ尾根だった。尾根のすぐ脇はスカッと森ごと奈落に落ちてしまったような山肌剥き出しの斜面が数箇所あり、余計な妄想を何度もしてしまった。山頂付近の1kmはクサリ場と梯子が頻繁に登場した。ちょっとした岩場には杭とクサリが、やや登りにくいだろう岩場や、登山道が崩落している箇所には梯子が施され十分に安全は確保されていた。これだけ整備されたものを無料で利用できるのはちょっと儲けもんだ。

とはいえ、高齢の方と中学生未満の子供らが登るには相応の覚悟が必要と思う。

本厚木からバスで一緒だったご高齢の林さんは、煤ヶ谷のバス停で下り、バス停前にある地図に見入っていた時、向かう先が同じことを知った。お互いの視線の先が三峰山を指していたのだ。林さんは三峰山が昔の本で紹介されていて思い立ってきたらしい。物腰柔らかく非常に上品で、
「最近は登山で手足が痙攣することがあるけど、いざという時はGPSがあるから大丈夫です。^^」
と穏やかに話してくれた。しばらく一緒に歩いたものの、
「私はゆっくり行きますのでどうぞ^^」
とおっしゃられるので、
「それではまた後ほどお会いしましょう」
とてっきりどこかの休憩所で合流することになるだろうと一時の別れをした。が、休憩所がろくになく、その後は会えずじまいになってしまった。あの後の行程は、ステッキをついてではかなり厳しかった。単身だったからなおさら気になる。無事の下山は間違いないと思うんだけど。

山頂付近では、海老名から来たというワイワイガヤガヤ元気な小中学生20名ほどの一行に遭遇した。先頭と最後尾に一人ずついた保護者は気苦労耐えなかったと思う。
「一人ずつ渡れー!足場を確保しろー!!」という先頭を突き進む保護者の怒鳴り声と
「誰だよ、こんな山に登ることにしたの!」という子供たちの愚痴と
決して弱音を吐くわけにはゆかない、最後尾の疲れ果てた保護者の表情が印象に残っている。
総じて当初の予想を見誤った感が漂っていた。

でもまあ、このゴールデンウィークにメジャーではないこの山に来てしまうあたり、みな、似た何かを持っているんだろう。


登山の醍醐味は都会生活でくすぶり続ける本能に刺激を与えること、だと思ってる。
だから簡単な山であれば、予習は映画CM程度にしておき、できるだけまっさらな状態で望むようにしている。

ただ、開始と終了地点のバスの停留所とその時刻表は入念に調べておく。"待つ"のが苦手だからだ。ラーメン屋や人気アトラクションにも白けやすい。今日は調べたのに、系統を読み間違えてしまい、本厚木駅で55分も待った。

それからメジャーでもない山の場合、けっこう、停留所から登山口が見つかりにくい。集落がないと、聞く人すらいない。以前、行く手を阻む木々岩々で歩きにくさを感じつつしばらく登っていたら、きれいな登山道に出くわしたことがあった。あ、なるほど、今までのは沢だったか、と後から気づいた。そういう積み重ねが遭難に繋がるんだとつくづく思ってしまう。



計画と実行は、なかなか一致しない。
でも、そこで生じる誤差こそが求めている本能への刺激でもあるように思う。
刺激は絶え間なくあったほうが心地よい。

仕事は複雑な人の心が入り組んだ社会のど真ん中にこそあり、とかく誤差の本質が掴みにくくなる。それに比べ登山は、自分自身と真っ向に対峙できる。自分以外には大自然しかない。苦しかろうが心地よかろうがすべては自分の思い一つである。



それに方向感覚。自分が向いている方角を常に算出し続けるもの。
今回の登山は、結果、ほぼ一本道で、標識も分かりやすかったのでまったくその問題に直面することはなかったが、そうじゃない時がある。そんな時のために、方角は無意識に算出され続けている。こうしている今もね。

そして時々狂う。狂うのは困るが、嫌いではない。自分の限界、至らなさを知ることこそ、次のステップへの一歩になるからだ。帰ってから必ず地図で答えあわせし、狂い始めたポイントを確認する。そして
「なるほどー!!」
と納得する。この瞬間が気持ちいい。

ついでに、最初に抱いたイメージとリアルがどれだけ違うかも確認する。
誤差を知るのがとても楽しい。


それとそう。
今日の登山でもっとも刺激的だったのは、突然、
「ドサッ」
という音が少し先の草むらから聞こえてきた時のこと。
明らかに何かが動いた音がしたのだ。
「まさかツキノワグマ!?」
看板を何度も見たので疑わなかった。
細い山道の両脇は腰の高さほどの草むらで視界が悪い。
立ち止まりしばらく耳を澄ましていると、また
「ガサガサ」
という音がしだした。
確実に人間ではない何かがいる。
大いにびびり、自分の足がすくんだ。

進むべきか引き返すべきか。
いや、ここまで来て引き返すのは気が引ける。
だが、突き進んでクマに襲われるのも困る。
いやでも、ここまで来て山頂にたどり着かないのもどうだろうか。
いやでも、突き進んでクマと遭遇したくない。
そんなのを何回繰り返しただろうか。
いっちょ進む方を選んでみることにした。
ららら~と自分の存在を知らしめるための歌を歌いながら、
ここで俺は最期を迎えるかもしれない、とどこかで思いながら、
ゆっくり慎重に、クマの登場を待ち構えながら30mほど進んだ。
明らかにさっきドサッと聞こえたあたりは通過した。

安堵感が心に充満し始めたそのときだった。
少し遠くの木の上に何か動くものが見えた。

はっ

サルだった。少し大きめのサルがこっちを向いていた。ちょっとちょっと、どっかのチキンがサルをクマって通報しちゃったんじゃねーのか?と思ってしまった。


まあまあ。そういう誤差があるからこそ人生楽しいのです。
やっぱそう思います。