2008年3月31日月曜日

私は今、XXXを○○と感じる

私は今、XXXを○○と感じる

世の中のすべての事象はこれから成り立っている気がする今日この頃だ。


私は今、世の中のすべての事象を、「私はXXXを○○と感じる」から成り立っている、と感じる。

私は今、「今日この頃」を、およそ1月前から今日までの日、と感じる。

私は今、「およそ1月前」を、今日から25日前~35日前の間の日のいずれか、と感じる。

私は今、「今日」を、今を含む0時から24時までの間、と感じる。

私は今、「0時」を、一日の始まりと感じる。

私は今、「24時」を、次の一日の始まりと感じる。

私は今、「一日」を、太陽暦でいう、公転とか自転とかをパラメータとし、時間を何か猛烈な計算式で区切った単位、と感じる。


私は今、私を、宇宙に対して何かしら模索するモノ、と感じる。

私は今、今を、宇宙の生み出した時空の最端、と感じる。

私は今、感じるを、宇宙から生み出された何かしら模索するモノが宇宙という情報を入力すること、と感じる。


私は今、世の中のすべての事象を、こうのように感じる。



言葉の意味をブレークダウンして、別の、より曖昧さの少ない言葉で表現することを、定義というんだろうが、どれだけ定義をしていっても、定義を言葉(または数式)でするしかない以上、無限のリフレクションに陥ってしまう。
とはいっても、僕らは生命を維持しなければならない、また、維持できる時間にも限りがある、という制約を負っている。
そのためにある程度の割り切りが必要になってくる。
なので人は、必然的にところどころ(あるいはすべての?)意味合いを絶対的に定義することになる。

幸福とはこうである、
国家とはこうあるべきである、と。

決め付けが著しく多い人を、人々は融通の利かない頑固者、と呼ぶのかもしれない。
決め付けを行わず、抽象化しつづける人を、何言ってるかよく分からない哲学者、というのかもしれない。

プログラムにも同じことがいえる。
振る舞いを定義する以上、定数やハードコードを失くすことはできない。
適度な割りきりが必要で、どこまで柔軟にするかは常に悩むところである。

それから、決め付けがすべて悪いとは決して言わない。
地球上で生きている限り、時空を決め付けることによる損失は
決め付けないことによる損失よりずっと小さい。

私が今、感じる、ということ以上の確信に近づくことは誰にもできない、
私は今、そう感じている。

この感覚そのものは誰にも否定することはできない。
むろん、肯定することもできない。

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