ニューズウィークの「アメリカ後の世界をよむ」の一説によると、そういうことらしい。
ここでいう平和とは、組織的な暴力による死者数が少ない、ということ。
テロや戦争の犠牲者が1950年以降で最低レベルにあるようだ。
ではそれ以前がどうだったかというと、感覚、調べるまでもないように感じる。
アウシュビッツとか、xx大虐殺とか、都市部への原爆投下とかやっていたのである。
もう少し遡ると、人食いや首刈りが世界のいたるところで行われていた事実が残っている。
首刈りなんてなんて野蛮な!
と思うだろうけど、世界最大の首刈り族は日本人である、という情報もある。
武士の時代は、刈ってきた頭の数で給料が決まったらしい。
なんと。
それはさておき、現代に生きる僕らは本当に平和を実感できているだろうか。
多分、否。
世の中、ひどいニュースが多い。
ニュース番組は好きだけど、考え込んでしまいそうでたまらず消したくなる。
ホームに突き落とされたり、通り魔に刺されたり、刻まれて捨てられたり。
そんな中、個人的にずっと感じていること。
決して現代は物騒になってはいない、ということ。
コメンテータの加える「物騒な世の中になりましたね・・・」は少しずれていると感じている。
その理由。
1.人口増加で事件が単純比例で増加しているだけ
もしそうなら、物騒さは変わらない。
おそらく、凄惨な事件は以前からずっとあったはずだ。
『ヘンゼルとグレーテル』や『姥捨て山』や「畜生腹」の話なんかを聞くと、
「事件」ではない「慣わし」ですら、現代社会で保障された人権を大きく侵害してしまっている。もちろん、慣例風習と、予期できない八つ当たり的な殺人事件は性質が違う。
仮に慣例風習を除いた「事件」の発生率がどの時代も一定だったとする。人口が爆発的に増加している現代は、必然的に事件の数も増加することになる。つまり、事件の単純な増加は「物騒になっている」という根拠にはならない。日本社会における事件発生頻度は上がるかもしれないが、一個人でいうと、むしろ下がっているんじゃないかと感じる。実際数値の根拠もあるようだが、ここで言っているのは感覚。
2.情報網が劇的に発達している
それから、情報網がシナプスのごとく行き渡り、どこか遠くで発生した事件がこと細かく伝えられる。以前なら、近所で起きた事件もここまで詳しくは知りえなかったと思う。結果ぼくらは、本来以上に身近な、いつ自分の身に起こってもおかしくない事件と錯覚してしまう。
直感のズレはここでもいつか紹介した。情報量のバランスがずれていれば、導き出される結果も当然ずれる。
その報道の詳細さについては賛否両論ある。が、事実を伝えることは、ある程度重要だと考える。苦しみは、次の事件発生の抑止力なる。と思ってる。
ところで今回の事件、犯人の感じる思いは、置かれた状況を考えると、結果こうするかは別問題として、よくわかる気がする。
少し前まで、エンジニアとしていくつもの現場を回ってきた。扱われ方はまちまちで、表現方法は別として彼の気持ちは分からなくもない。
一方、被害者に視点を移せば、言葉がみつからない。
仮に犯人を社会が作り出したと考えるなら、その傷は僕ら一人一人が均等に受けなければならなかった。
多分、事故は必然だったんだろう。
僕らの競争が前提の社会は、今回のような犯罪を生み出す仕組みになっているんだと思う。
グローバルなうねりの中、気づかない人もいれば、気づかぬ振りをする人もいる。
本当に難しい問題だ。
それでも一つ。
話を元に戻すなら、「現代は人類史上もっとも平和な時代」らしい。
目に見えるものを見、その中でやれる限り、真摯に尽くす、
できるのはこれくらい、なのかもしれない。
なんとも答えは出しにくい。
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