先週、広島、島根、山口を旅してきた。
母の出身地が山口で、昔からそちらの地方の話を聞かされて育った。
遠浅で透き通る瀬戸内の海、
そこで食うに困るほど獲れる貝や蟹、
道端になるイチゴ、
親戚の山の無数の松茸、
山口の国立病院を父(祖父)の仕事の関係で転々としていたこと、
錦帯橋、
とかとか。
母は広島ファンだった。
母は広島がピンチになると、テレビのチャンネルを変えるよう不愉快そうに言ってきた。
母のみならず、母の家系はみな広島ファンだった。
祖母は数年前に亡くなったが、90歳を過ぎて尚、新聞片手に近年の広島の不甲斐なさを憂えていた。
そんななので、打った後に走る方向すら分からない女性には、相応にげんなりした。
あ、広島って、広島東洋カープのこと。
1980年代
広島戦は、対戦相手が巨人のときだけテレビで見られる。
その事実を知ったのは、小学校高学年の頃だった。
そういえば、いつもテレビで見る相手は巨人だよな、ということに気づいた。
たまにやるテレビ中継は大いに食い入った。
広島が苦境を打破すると、無意識に歓声を上げていた。
それが隣近所まで聞こえていたことを、
広島が苦境を打破できなかった時に起こる、俺んちに聞かせることを目的とした隣のうちの拍手喝采によって知った。
あ、隣のうちは巨人ファンだ。
ちぇっ。
それに対抗する思いはまったくなかった。
が、広島が逆転するとまた無意識に大声を出してしまった。
それが隣近所まで聞こえたことを、
さらに逆転された時に起こる、より一層の拍手喝采によって知った。
隣のうちは、けっして広島戦以外でその拍手を起こさなかった。
いま思えばひょっとして、アンチ広島だったのかもしれない。
んなわけないか。
補足すると、うちの一族は広島ファンかつ、熱烈なアンチ巨人だった。
だから単に巨人が負けるのも、楽しいことだった。
そこに広島の勝利が絡んでくると、その心地よさは麻薬のようだった。
それくらい、当時の広島の試合はしびれ、そして日本のプロ野球も盛り上がっていた。
さらに補足すると、普段あまりものごとを言わない父は、
#酔っ払うとウダウダしゃべりだすんだけど。
近鉄ファンと公言しているけど、隠れ巨人ファンなんじゃないか、
という嫌疑が、試合中の些細なリアクションから掛けられていた。
「ばかなこというなよ」
いつでもそう答えたが、
巨人ファンであることは、我が家の中では、
もう人間として軽蔑するに値するレベルだったから、仮にもし巨人ファンだとしても、
そうであることは決してカミングアウトできなかったと思う。
1990年代
しばらくして、巨人ファンは全試合テレビ中継されているという事実を知った。
高校の頃だったか。
自身、巨人主体で物事を考えることがなかったので、その事実になかなか気づかなかった。
4chの巨人戦の放送はひどかった。
広島のピンチを、
「このチャンスを生かしたいですねー。」
といい、広島のチャンスを
「このピンチは何とかしのぎたいですね。」
といい、広島が勝てば
「残念ながら負けてしまいましたが、」
などと抜かした。
その一方的な偏り具合が気に入らず、読売系列すべてが嫌いになった。
巨人、ヴェルディ、読売新聞、日本テレビ、渡辺恒雄、などすべての関連が。
高校の頃には、巨人ファンを見つけると、
「それでいいのか?あんなんで勝って楽しいのか?」
と疑問を投げかけるようになっていた。
今となればどうでもいいことなんだけど、
まあ当時はどうでもよくなかった。
高3の時、クラスに3人の広島ファンがいた。
板橋と鉄平ちゃんと俺だった。
関東に住んでいると広島ファンは皆無に等しかったので頼もしいことだった。
実はその頃、広島は既に弱小チームとなっていた。
戦犯は、先日北京オリンピックでドラマを演じた仙一の一味、山本浩二。
選手と監督は必要な能力が違う。
選手には分析結果を忠実に再現する、または本能的に反応する身体能力が必要だが、
監督にそれは必要ない。
逆に監督にはもっと総合的にものごとを分析し、判断する力が必要で、
仙一同様、山本浩二はそれを持っていなかった。
チームは万年Bクラス。そのほとんどが最下位。
小学生だった頃、NHKで、
「実はここ10年間でもっとも優勝しているチームは広島なんですね。」
とアナウンサーが言っていたのを強く覚えているが、
その当時は知ることはできなかった屈辱の歴史が、1992年の優勝を最後に始まっていた。
が、打線は驚くほどよかった。
7、8点差くらいなら軽くひっくり返した。
逆に、7、8点差つけても、軽くひっくり返された。
かつて、北別府、大野、川口らを擁して、投手王国と呼ばれたあの時代とはまるで姿を変え、
大味な試合を展開し続けた。
山本浩二により、広島は明らかな打撃偏重チームへと生まれ変わり、
チーム成績とは関係なく続々スターが生まれていった。
にわかに広島ファンが増えだしたのもこの頃だと感じている。
退屈な授業では、理想のオーダーを何度も書いた。
1番 ショート 野村謙二郎.315 32本 30盗塁
2番 セカンド 正田 .340
3番 センター 前田 .325 27本
4番 サード 江藤 .321 39本
5番 レスト 金本 .300 30本 30盗塁
6番 ファースト ロペス .320 30本
7番 ライト 緒方 .300 36本 50盗塁
8番 キャッチャー 西山 .280
9番 ピッチャー ?
右の代打、町田 .300 12本
左の代打、浅井 .323 11本
だいたいこんな感じだった。
代打の町田と浅井は、他球団へ行けば十分にクリーンナップを打てる実力者だった。
シーズンを通して打席に立てれば、30本塁打以上は打っていただろう。
それから、いつもセカンドに悩んだ。正田は少し時代が違ったが、俺のベストオーダーに当てはまるセカンドがいなく、少し古い正田をはめた。
キャッチャー西山もしっくり来なかった。彼のとりえは、見た目によらない足の速さだった。
ピッチャーはベストといえる投手がいなかった。
山内、小林かんえい、など時折注目される投手が現れたが、酷使し、いとも簡単に潰れていった。
前田、江藤、金本、野村、緒方
彼らがいる間、チームは最下位でも、ファミスタは広島が強かった。
1990年代後半
さらに特筆すべきは、アルフォンソ・ソリアーノという存在感のほとんどない打者がいたこと。
あまりに好打者が揃いすぎていたため、それ以外の選手の出番は限られていた。
ソリアーノはベンチで可愛がられていた黒人。そんな印象だった。
彼は、団野村により広島を退団し、ヤンキースへ移籍した。
まったく知らなかった。
が、その3年後、ヤンキースがワールドシリーズで優勝した際、ソリアーノはレギュラーとしてセンターを守っていた。
広島が弱くなり、野茂がメジャーで活躍するようになってから、俺の視線はメジャーに傾くようになっていた。
ソリアーノがワールドシリーズで優勝したチームに所属していたのは、偶然の巡り会わせだろう。当時はその程度に考えていたが、どうやら違った。
彼はその後、30本塁打、30盗塁を3回記録し、2006年には、ジャー史上4人目の40盗塁、40本塁打をやってのけた。
また、二塁打も40本以上記録し、メジャー史上初の40本塁打40盗塁40二塁打全てを同時に達成した選手となった。
メジャーリーグのファン投票で1位を獲得する選手となったのだ。
あ、
あの時のセカンドにソリアーノを入れておけば・・・、
これはすごい打線じゃないか!
と今気づいた。
2000年代
江藤は巨人に移籍した。
金本もその数年後に阪神に移籍した。
さらに昨年、4番打者として育て上げられた新井も金本に続いて阪神へ移籍した。
黒田は、広島と戦う自分が想像できないと、ドジャースへ移籍した。
もはや俺の中で、日本のプロ野球は過去のものだった。
あれ?まだやってたの?
程度の。
つづく。
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