2008年9月8日月曜日

飽きるとは

自分自身をそれでは測れなくなってきているということ。


自分は、自分以外がいて、それとの相対関係で成り立っている。
一箇所に居続けると、変化が乏しく相対関係が掴みにくくなる。
やがて自分というものが何なのか分からなくなってしまう。
だから人は居場所を変え、それによりもたらされる情報を、ただひたすら全身で浴びようとする。


仮に一箇所にい続けるとする。
それでも、自分以外が変わるので相対的に自分の意味は変わっていくことになる。

なぜ僕らは変わろうとするんだろう。
それは多分、宇宙の派生物はひとしく可能性を模索する使命が仕込まれているから。
僕らはどうしても不変ではいられない。


たとえば、次の瞬間、すぱーーっと何もない宇宙空間に放り出されるとする。

数分もすれば、右も左も分からなくなる。
前も後ろも、
上も下も、
狭いも広いも、
僕らの信じた善も悪も
次第に意味を失っていく。

何を叫んでも、その声はどこにも届かない。

その時、いい加減気づくはずである。
この世の価のすべてが、自分が勝手に信じ込んだ錯覚であると。



それでもやっぱ。
それでもやっぱ、電車の席は譲り合うのが美しいと感じてしまう。
それでもやっぱ、挨拶は大いに感情を込めてすべきだと思ってしまう。
それは社会に対する敬意そのものだと思うんだ。
それはそのまま自分に対する敬意であるようにも感じる。

ぼくらは次の瞬間、宇宙に放り出されるわけじゃないから。


右も左も、
前も後ろも、
上も下も、
狭いも広いも、
善も悪も、
ある程度あって。
何が大切で、どういう行為が悪なのか決まってくる。


飽きるって素晴らしいこと。
変化のシャワーは五感に浴びせ続けたほうがいい。
きっと鏡よりずっと自分を赤裸々に映し出してくれるはずだ。

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