2008年4月26日土曜日

復活の呪文

懐かしい時代のこと。

そういえば、当時のドラクエにはセーブ機能がなく、ゲームを終える際は長ったらしい文字をメモし、再開する際は、それらを入力しなければならなかった。その長ったらしい文字を「復活の呪文」と言った。

みな、ひたすら入力を間違えた。必然的に復活の呪文のBGMを聞く時間は長くなった。ファミコンを持っていない俺でも十分に覚えられるほどだった。

復活の呪文のBGM


ギターで。


そして数年後。

中学1年か2年のころ。まだファミコンは持っていなかったが、持っている彼らと同様、ドラクエ3が出るのを期待した。もちろん、期待したのはインストゥルメンタルのほう。ドラクエ3はNHK交響楽団により演奏された。

中学に入り、エレクトーンをやめる正当な理由をずっと探していた。長いこと習っていたし、先生にも言いづらかった。中学3年の夏、ようやく、高校受験というかっこうの理由が見つかった。ただ、その前に最後の試験が残されていた。

ドラクエ3のエンディングテーマをエレクトーンの試験の課題曲として選んだ。"そして伝説へ"というタイトルだった。試験の当日、えらく緊張していた。
「宜しくお願いします。」
と入っていった先にいた試験官は二人。中学三年生の男子が試験にくることが、少なかったんだと思う。二人とも明らかに"おっ"といったリアクションをした。試験官が指示したのは、耳コピした"そして伝説へ"ではなく、3拍子にアレンジした"シェルブールの雨傘"だった。

試験会場はいつも渋谷だった。
今じゃ、素通りしてしまうあそこは、一年に一度の憂鬱な試験会場だった。

その昔、コピーは一枚50円だった。
試験中、譜面をめくることができないので、試験の直前に山下書店でコピーした。
山下書店の面影は今も昔も変わらない。

そういえば。
俺も最初は恥ずかしかったような記憶がある。適当にそれっぽく演奏することが。鍵盤を弾けない鍵盤好きの友人が、いざ鍵盤を弾こうとし、照れて固まってしまう気持ちがよく分かる。

試験の際、課題の一つとしてアレンジした曲を用意しなければならなかった。先生と一緒に練り上げていくんだが、その一番最初は自分で作らなければならなく、それを先生に披露する瞬間は確かに苦痛だった。
「こんなでいいですか?」
という思いをフンダンに込めながら、弾いたんだと思う。多分。それから、別の課題に、即興のアレンジ能力を試すものがあった。簡単な譜面を渡され、適当にアレンジする。この練習をけっこううちでやっていたと思う。それで徐々にアレンジすることの照れがなくなっていったのかもしれない。

アレンジとは、広義で捉えれば作曲である。つまり自分が生み出すメロディーであり、それは自分の心、魂である。

俺のほうは、今じゃ逆に譜面を見て演奏することができない。少し傲慢な気もするけど、適当に、思うままにしか弾く気がしない。

指示された"シェルブールの雨傘"は緊張のあまり、いつものようには弾けなかった。途中、つっかえ、すべてが真っ白になった。打ち込んだリズムはとまることなく先へ行ってしまう。メロディーはなんとか弾くものの左手がどうしようもない。

たしか、かなりへこんだ。
確実に不合格だと思った。

昨年友人の結婚式で軽くギターで歌う機会があった。新婦である友人の奥さんはヤマハの先生だった。奥さんの友達もヤマハの先生だった。ヤマハの先生と同じステージに上がったことに、感慨深いものを感じた。

式の後、先生たちと音楽を話そうとしたけど、あまり深く話せなかった。彼女たちは、演奏の先生であり、曲を作っているわけではなかった。

試験の後、ずっと落胆していた。しばらくして試験の判定結果が先生のうちに届いた。先生には、うまく弾けなかったことは伝えていた。それだけに
「おめでとう!合格したわよ!」
と言われたはずである。多分。
あ、、
「これでアマチュア最上級と言っていいのよ」
こっちの言葉ははっきりと覚えている。その一つ上の級は、先生の資格を取れたのだ。それは今でも同じようだ。

ところで、"そして伝説へ"を指示されたら困ることが一つあった。うまく小刻みに鍵盤を叩けない箇所があったのだ。Youtubeでこんなのを発見し、ひどく郷愁にかられ、感動したのと同時にそれを思い出した。

思い出したのは、それだけじゃなく、ここに書いているすべてだけど。

この人は、指がとてもよく動いている。本当にすごい。

問題の箇所は、5:18あたり。


実は中学三年の時、はじめてファミコンを手に入れた。3000円で友達から譲り受けた。ドラクエ4もやったんだけど、そちらはゲームの印象しか覚えていない。

ゲームをやっていないドラクエ3の方がどうにも感動的に心に残っている。今、改めて音楽の偉大さを垣間見た気がする。

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