2006年8月22日火曜日

俺のスカシガオ

そう、先日、麻布十番祭りへ行った。思いつくまま渋谷からバスに乗り込んだ。毎度のことだがバスに乗るたび幼き頃の遠足を思い出す。こんなごく平凡な日にバスで遠足にいけるなんて俺ってちょっと贅沢してんな、と思えてしまう。富士そばのかつ丼といい、我ながら安上がりだ。バスに乗るなら一番後ろがいい。座席の広さもそうなんだが、後ろに荷物が置けるのもそうなんだが、視線が高いのがなによりいい。乗用車では味わえない風景が続々飛び込んでくる。

明治通りを突き進み、天現寺の交差点を越え、国道一号を左折するといよいよ麻布十番が近づいてくる。

なんども言ってる通り、そこらへんは俺の庭だ。そこらへんというか、港区、渋谷区、品川区、目黒区は出前時代に培った土地勘で、麻布十番の坂を上がったところにある井川さんちとか、白金トンネルの脇の御法川さんちとか、都営アパートの909の岸さんのうちとか、あまり自慢できない場所まで覚えてしまっている。そんなこんなでその地帯へ行くと、どうしてもバイト時代の思い出が蘇ってくる。

まさに麻布方面だったと思う。とあるお婆ちゃんは配達の僕らに決まって500円のチップをくれた。そのお婆ちゃんから注文を受けると出前の指令が誰にくるかバイト君たちはかなり気になった。マネージャーに指名されると、

よっしゃー!

とガッツポーズをしたかは覚えていないが、当たりくじを引いた気分で出前に向かった。すしを届けると僕らは、曲芸を終えたアシカのようにご褒美の瞬間を待ち構えた。

#僕ら、と書いたのは多分俺だけじゃないはずだから。

お婆さんが代金とは別に500円をくれそうになると、僕らは、

え!ほんとにいいんですか!!

という素振りを一応し、予定通り頂いたお金をポケットにしまった。でも一回もらえなかったことがあった。あ、あれ?と一瞬たじろいでみたが、僅かな沈黙の後、何ごとも起こりそうにないので仕方なくちぇーっと帰った。それからお婆ちゃんは時々500円玉ではなく、100円玉5枚でくれた。中に古い100円玉が混ざっていることがあった。その古い100円を店長が200円で買い取ってくれたこともあった。ちなみに俺はその一枚をコイン入れにしまっている。

残念だがそんな素敵なお婆さんばかりではなかった。年配の方の中には、皇族か士族か財閥の成り下がりか時代錯誤な差別をする人がいた。東五反田の東南アジア系の使用人を雇っている家は、そういった意味で強く印象に残っている。何を言われたかは忘れてしまったが、"出前なんかしてるお前らとは身分が違う"的なその人の言動に、麻布のお婆ちゃんの古い100円玉とは別の日本の歴史を垣間見た気がした。店に帰り店長に、カチンときた旨を伝えると、その家はどこの出前からも断られてるということだった。ある意味、それを救ってあげていたのがすしトラだったのかもしれない。それから金持ちの家には決まって玄関と異なる勝手口が存在した。とある家で知らずに正面の玄関から入ったとき、その玄関までの大理石の道のりに汚い足跡をつけたと激昂されたことがあった。決して足跡を残すような靴を履いていたわけではなかった。

麻布といえば、麻布高校にも出前に行った。領収書を書くとき、アザブの漢字がどこをどうひねっても思い浮かばず、思い切って尋ねてみた。

「麻に布だよ。」

と教員みたいなオヤジに言われ、ああ!それそれ!と書くと、

「君、意外に字は上手いじゃないか。」

と褒めてくれた。ちょっと悔しかった。俺は中学時代、漢字博士の称号を頂いたが、麻布という漢字は学校では教えてくれなかった。

それからなぜか出前のみんなは頭に何かをかぶっていた。せがれのコージは土方風にタオルを巻いていた。俺と栄一は確かニット帽だった。オシャレな良忠はグレーのターバンをしていた。

良忠のHP!

栄一はさらにサングラスもしていたような気がする。

俺たちの運手、いかに荒いかがステータスであり、寿司は届けるまでによく倒れた。ある時、店にクレームの電話が掛かってきた。どうやらお客さんが倒れた寿司を直す現場を見てしまったようだった。お届けした本人によくよく聞いてみると、その届け先の家の前で直してしまったらしい。そら目撃もされるわ、と思った。犯人はA一だった。

その時、倒れた寿司はせめて届け先の最後のコーナーを曲がるまでには直そう、というルールが確立された。

話し出せば尽きない。

 

いやあ。今日もまったくタイトルと関係のない文章を書いているうちに疲れ果ててしまった。

0 件のコメント: